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第 08 課 · なぜキリスト教か

なぜキリスト教なのか?何がちがうのか?

あなたはもう、神が存在することを確信しているかもしれません。でも、なぜほかでもなくキリスト教の神なのでしょうか?宗教はどれも基本的に同じではないのでしょうか?実は、そうではありません。キリスト教は、ほかのどの宗教もあえて主張しないことを主張します。検証できる主張を。

谷から立ち上がるいくつもの別々の山。それぞれに異なる曲がりくねった道があり、遠くの一つの山の頂だけが金色の光に包まれている

宗教はどれも基本的に同じではないのか?

どこでも耳にする言葉があります。「宗教はどれも、同じ山に登るちがう道にすぎない。」「どの宗教も教えていることは基本的に同じで、よい人になれということだ。」「何を信じるかは問題ではない。誠実でありさえすれば。」

心地よく聞こえます。寛容にも聞こえます。しかし、一つ問題があります。それは事実ではないのです。

世界の主要な宗教は、細かな点で意見が分かれているだけではありません。考えうる最大の問いについて、意見が分かれているのです。たとえば、神は一人か、多数か、それともまったく存在しないのか?宇宙は創造されたのか、永遠に存在するのか?人は一度だけ生きるのか、それとも永遠に生まれ変わり続けるのか?天国はあるのか?死んだらどうなるのか?

これらは小さなちがいではありません。人生で最も重要な問いに対する、正反対の答えです。同時にすべてが正しいことはありえません。2 + 2 が 4 でもあり 7 でもあることがありえないのと、同じ理由からです。

💡 身近なたとえ
診察室。三人の医師が同じ患者を診察するところを想像してください。一人は「骨折しています。整復が必要です」と言います。二人目は「骨折ではありません。感染症です。抗生物質を飲んでください」と言います。三人目は「患者などいません。病気は幻です」と言います。これは同じ診断にたどり着く三つの道ではありません。互いに矛盾する主張であり、正しいのは多くても一つだけです。世界の宗教は、最も深い問いについて、ちょうどこのような関係にあるのです。
白衣を着た三人の医師が一人の患者のカルテをめぐって意見を対立させ、それぞれちがう方向を指さしている

主要な宗教が実際に教えていること

世界の最大規模の宗教を、その中心的な主張について比べてみましょう。これはだれかを軽んじるためではありません。それぞれを十分に真剣に受け止めるからこそ、まったくちがうことを言っていると気づくのです。

問い キリスト教 ユダヤ教 イスラム教 ヒンドゥー教 仏教
神とはだれか?三つの位格を持つ、人格を持つ唯一の神人格を持つ唯一の神(キリスト教と同じ神)唯一の神(アッラー)、厳格に単一ブラフマン。万物に宿る非人格的な力。無数の神々創造神はいない。この問いは役に立たないものとして脇に置かれる
イエスとはだれか?人となった神。神の子メシアではない。偽教師、または重要でない人物預言者。神ではなく、十字架にもかけられていない数多くいる神的な教師の一人仏教の教えには含まれない
どうすれば救われるのか?恵み。信仰を通して神から無償で与えられる賜物神の律法(トーラー)への従順。悔い改めと善行神の意志への服従。善行が悪行を上回らなければならない魂がブラフマンと一体になるまで輪廻を繰り返す八正道に従って涅槃に至り、苦しみを終わらせる
死後はどうなるのか?一度の生、その後に審判と神と共にある永遠の命一度の生、その後に審判。来世についての見解はさまざま一度の生、その後に審判。楽園か地獄か輪廻。何千回もの生を繰り返す可能性涅槃に至るまで再生を繰り返す。自己の終わり
メシアは?イエスが約束されたメシアであるメシアの到来をいまも待っているイエスは預言者であり、メシアではない単一のメシア概念はないメシア概念はない。ブッダは教師であって救い主ではない
中心的な主張を歴史的に検証できるか?できる。復活は公の歴史的出来事である部分的に。歴史的出来事(出エジプト、神殿)に根ざすが、メシアの主張は未来のことできない。ムハンマドの啓示は私的な体験だったできない。歴史的出来事ではなく哲学的な思想に基づくできない。歴史的出来事ではなく個人の悟りに基づく

決定的に重要なことに気づいてください。これらの宗教は、イエスが神かどうか、イエスが十字架にかけられたかどうか、神は一人か無数か、メシアはすでに来たのか、人はどうやって救われるのかについて、意見が食いちがっています。これは「同じ山に登るちがう道」ではありません。まったく別の山なのです。

💡 重要なポイント

「宗教はどれも同じだ」と言うことは、実はあらゆる宗教を軽んじることです。それぞれが実際に教えていることを無視しているからです。ヒンドゥー教徒も、ムスリムも、ユダヤ教徒も、クリスチャンも、自分たちの信仰が同じことを言っているという主張には、そろって反対するでしょう。宗教を真剣に受け止めるとは、その本当のちがいを認めることです。

キリスト教とユダヤ教:最も近く、そして最も重要な比較

世界のあらゆる宗教の中で、キリスト教と最も多くの共通点を持つのはユダヤ教です。クリスチャンとユダヤ教徒は同じ神を礼拝します。同じ旧約聖書を共有しています。創造、道徳律、罪の現実、そして来たるべきメシアへの期待について、意見が一致しています。

では、何が食いちがっているのでしょうか?それは一つの巨大な問いに行き着きます。メシアはすでに来たのか?

ユダヤ教徒は「いいえ」と答えます。彼らはまだ待っているのです。クリスチャンは「はい」と答えます。ナザレのイエスこそ、旧約聖書の預言者たちが描いたメシアだと。キリスト教はユダヤ教を拒絶するのではなく、その成就であると主張します。イエス自身がこう言いました。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ 5:17)。

そこで問いはこうなります。イエスは、旧約聖書の預言者たちがメシアについて予告したことに、実際に合致しているのでしょうか?ここからが、証拠が驚くべきものになるところです。

イエスが成就した旧約聖書の預言

旧約聖書には、ユダヤ教とキリスト教の学者がともにメシア預言と認めてきた箇所が何百もあります。メシアが何をするのか、どこから来るのか、何が彼に起こるのかを描いたものです。これらはイエスの誕生の何世紀も前に書かれました。ほんの数例を挙げましょう。

  • 1
    ベツレヘムで生まれる。預言者ミカはこう書きました。「しかしベツレヘム……よ……イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」(ミカ書 5:2)。紀元前 700 年ごろの記述です。イエスはベツレヘムで生まれました(ルカ 2:4-7)。
  • 2
    刺し通されて殺される。預言者ゼカリヤはこう書きました。「彼らは、自分たちが刺し通した者であるわたしを見る」(ゼカリヤ書 12:10)。紀元前 500 年ごろの記述で、十字架刑が処刑法として発明されるより何世紀も前のことです。イエスは十字架につけられました(ヨハネ 19:34、37)。
  • 3
    銀貨 30 枚で裏切られる。ゼカリヤはこうも書いています。「そこで彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った」(ゼカリヤ書 11:12)。ユダはちょうど銀貨 30 枚でイエスを裏切りました(マタイ 26:15)。
  • 4
    富める者と共に葬られる。イザヤはこう書きました。「彼の墓は悪しき者と共に設けられ、その死において富める者と共にあった」(イザヤ書 53:9)。紀元前 700 年ごろの記述です。イエスは、裕福な人であるアリマタヤのヨセフの墓に葬られました(マタイ 27:57-60)。
  • 5
    苦難のしもべ。イザヤ書 53 章は、「侮られて人に捨てられ」、他の人々の罪を負い、「ほふり場にひかれて行く小羊のように」連れて行かれる人物を描いています。これはイエスの 700 年前に書かれ、ユダヤ教とキリスト教の学者がともにメシア預言と認めてきました。
📊 この確率はけた外れ

数学者ピーター・ストーナーは、一人の人物がこれらの預言のうちわずか 8 つを偶然に成就する確率を計算しました。1017 分の 1、つまり 100,000,000,000,000,000 分の 1 です。イメージするなら、テキサス州全体を深さ 2 フィート(約 60 センチ)の銀貨で埋め尽くし、その中の一枚に印をつけて、目隠しをした人に一発で拾い当ててもらうようなものです。イエスは 8 つどころか、300 以上のメシア預言を成就しました。

💡 なぜこれが重要なのか
キリスト教はユダヤ教の拒絶ではありません。ユダヤの聖書がずっと指し示してきたのはイエスだ、という主張なのです。旧約聖書は、来たるべきメシアについての約束を何世紀にもわたって積み重ねてきました。クリスチャンは、イエスがその約束を成就したと信じています。ユダヤ教とのちがいは、その約束が存在するかどうかではなく(それは双方が認めています)、イエスがその約束の描く人物かどうかにあります。預言の証拠は、使徒たちから今日に至るまで、歴史上多くのユダヤ人が「そのとおりだ」と結論してきた理由の一つです。

キリスト教は、ほかのどの宗教もあえてしない主張をする

世界の宗教の中でキリスト教を真に唯一無二のものにしているのは、これです。その中心的な主張が、調査できる公の歴史的出来事だということです。

キリスト教の核心は、哲学でも、感情でも、私的な幻でもありません。それは、特定の一人の人物、ナザレのイエスが、ローマ政府によって公開処刑され、知られた墓に葬られ、そして三日後に、何百人もの目撃者の前で肉体をもって死からよみがえったという主張です。

使徒パウロはそれを率直に語りました。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(コリント人への第一の手紙 15:14)。パウロは事実上、世界にこう告げたのです。もし復活を反証できるなら、キリスト教は終わりだ。

ほかの主要な宗教で、これほど危険で検証可能な主張をするものはありません。

  • 1
    イスラム教の土台は私的な啓示です。ムハンマドは、洞窟の中で天使ガブリエルが自分に語りかけたと伝えました。ただ一人でいるときのことです。ほかにはだれもいませんでした。私的な体験を歴史的に検証することはできません。
  • 2
    ヒンドゥー教の土台は歴史的ではなく哲学的です。ヴェーダやウパニシャッドには実在の本質についての思想が含まれていますが、特定の検証可能な歴史的出来事がその思想を真だと証明する、とは主張していません。
  • 3
    仏教の土台は個人の悟りです。ブッダは苦しみを終わらせる道を示しましたが、その権威は個人的な体験に基づいており、他の人が確認したり否定したりできる公の歴史的出来事に基づいてはいません。
  • 4
    キリスト教の土台は公の出来事です。復活は特定の時、特定の場所で、特定の証人の前で起こり、歴史的に検証することができます。このカリキュラムのこれまでのレッスンが歴史と証拠にこれほど力を注いできたのは、そのためです。
💡 こう考えてみよう
法廷テスト。それぞれの宗教が、その中心的な主張を法廷で提示しなければならないと想像してください。キリスト教は、名前の知られた目撃者、敵対的な史料による裏づけ、空の墓、そして反証できたはずの人々が生きているうちに爆発的に広がった運動を携えて入廷します。ほかの宗教は、私的な体験や、哲学的な思想や、何世紀にもわたって伝えられてきた伝承を携えて入廷します。だからといって彼らがまちがっているとは限りません。しかし、陪審が実際に評価できる種類の証拠を差し出しているのは、一つだけなのです。
木製の壁板に囲まれた荘厳な古い法廷。だれもいない証言台に一筋の光が差している

イエスは自分について何を主張したのか

多くの人がこう言います。「イエスは偉大な道徳の教師だった。でも、神だったとは信じない。」もっともに聞こえます。しかし問題があります。イエスはその選択肢を残しておかなかったのです。

ほかの宗教の創始者とはちがい、イエスはよいことを教えただけではありませんでした。人々に決断を迫るような、自分自身についての主張をしたのです。

  • 1
    イエスは罪を赦しました。自分に対する罪ではなく、他の人々に対する罪をです。その権威を持つのは神だけです。(マルコ 2:5-7)
  • 2
    イエスは「わたしと父とは一つである」と言いました。聞いていた人々はその意味を正確に理解しました。だからこそ彼らは、冒涜のかどでイエスを殺そうと石を取り上げたのです。(ヨハネ 10:30-33)
  • 3
    イエスは「アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」と言いました。旧約聖書にある神自身の名(出エジプト記 3:14)を用いたのです。聞いていた人々は、これを神であるという直接の主張と受け止めました。(ヨハネ 8:58)
  • 4
    イエスは礼拝を受け入れました。忠実なユダヤ人や預言者なら決してしないことです。礼拝は神だけのものだからです。(マタイ 14:33、ヨハネ 20:28)

これこそ、イエスをほかのあらゆる宗教の創始者とちがう存在にしているものです。ムハンマドは自分が神だと主張したことは一度もありません。神の使者だと主張しました。ブッダも自分が神だと主張したことはありません。悟りへの道を見いだしたと主張しました。私たちの間を歩く神そのものだと主張したのは、イエスだけです。

うそつきか、狂人か、それとも主か?

『ナルニア国物語』の作者として有名で、20 世紀最大の思想家の一人でもある C・S・ルイスは、重要なことに気づきました。イエスが自分自身についてした主張は、私たちに三つの選択肢しか残さない、と論じたのです。

  • 1
    うそつき。イエスは自分が神でないと知りながら、信奉者を集めるためにそう言った。しかし、うそつきはふつう、歴史上最も深遠な道徳の教えを生み出したり、何十億もの人を愛と犠牲の生涯へと導いたり、そして一度も崩れることなく自分のうそのために死んだりはしません。
  • 2
    狂人。イエスは本気で自分を神だと信じていたが、妄想にとらわれていた。ルイスの言葉を借りれば、自分をポーチドエッグだと思い込んでいる人のように。しかし、狂人は山上の説教を生み出したり、国じゅうで最も切れる律法学者たちを言い負かしたり、人類の歴史の流れをまるごと変えた運動を築いたりはしません。
  • 3
    主。イエスは真実を語っていた。イエスは本当に、自分で主張したとおりの存在、人となった神である。

ルイスの指摘は、痛烈なほど単純でした。言えない唯一のことは、イエスは「ただの偉大な道徳の教師」だったということです。偉大な道徳の教師は、本当にそうでない限り、自分を神だとは主張しません。神だと主張する、ただの人間である教師は、うそをついているか正気を失っているかのどちらかであり、どちらも「偉大な道徳の教師」の資格にはなりません。

📚 C・S・ルイス『キリスト教の精髄』

ルイスはかつて無神論者で、オックスフォード大学の教授でした。クリスチャンになる前に、証拠を注意深く検討した人物です。彼の「うそつきか、狂人か、それとも主か」の論証は、何十年にもわたって哲学者たちの議論の的となってきました。そして今も、イエスが本当は何者だったのかを考えるうえで、最も力強い出発点の一つであり続けています。

「神が一つ少ないだけ」論法、そしてそれが失敗する理由

無神論者がこんなことを言うのを聞いたことがあるかもしれません。「クリスチャンは何千もの神を否定している。ゼウス、トール、ヴィシュヌ、ラー。無神論者は、クリスチャンより一つ多く神を否定しているだけだ。」

気のきいた決まり文句です。しかし、論理的に欠陥があります。理由はこうです。

クリスチャンがゼウスやトールやラーを否定する理由は、無神論者がキリスト教の神を否定する理由と同じではありません。クリスチャンがそれらの神々を否定するのは、証拠と論証が、きわめて特定の種類の神を指し示しているからです。時間を超え、空間を超え、計り知れない力を持つ、人格を持つ創造主です。そしてゼウスやトールやラーは、その記述に当てはまりません。彼らは宇宙の内側にいる強力な存在についての物語の登場人物であって、宇宙そのものの創造主ではないのです。

言い換えれば、これまでのレッスンで見た神の存在を支持する論証(宇宙論的論証、道徳的論証、微調整)は、特定の種類の創造主を指し示しています。問いは、どの宗教によるその創造主の描写が証拠に最もよく合致するか、です。それは「そもそも何らかの神を信じるのか?」とはまったく別の問いです。

💡 身近なたとえ
犯罪現場。刑事たちが、背が高く、左利きで、赤いトラックを運転する男が犯行に及んだという証拠を見つけたと想像してください。彼らは、存在するというだけの理由で市内の全員を逮捕したりはしません。証拠に合致する特定の人物を探すのです。何千人もの容疑者を除外することは、証拠がないことと同じではありません。むしろ正反対で、証拠が範囲を絞り込めるほど具体的だということです。クリスチャンがほかの神々を否定するのは、証拠が特定の方向を指し示しているからです。

覚えておきたい重要語句

宗教多元主義
すべての宗教は神や真理へ至る同等に有効な道だ、という考え。心地よく聞こえますが、宗教が実際に教えていることの間にある本当の矛盾を無視しています。
反証可能
原理的にはまちがいだと証明できる主張。キリスト教の復活の主張は反証可能です。だれかがイエスの遺体を差し出していれば、キリスト教は反証されていたでしょう。
トリレンマ
三つの選択肢からの選択。ルイスのトリレンマは、イエスはうそつきか、狂人か、それとも主のいずれかでなければならず、「ただのよい教師」という第四の選択肢はないと述べます。
排他的主張
それが真であれば、矛盾する主張を排除する主張。イエスは「わたしは道である」(ヨハネ 14:6)と言いました。排他的主張です。ただし注意してください。キリスト教だけでなく、あらゆる宗教が排他的主張をしています。

よくある疑問と反論

❓ 反論

「自分の宗教だけが正しいと言うのは傲慢だ。」

✓ 応答

あらゆる世界観は排他的な真理主張をしています。無神論(神は存在しないと主張します)も、多元主義(排他的に正しい宗教はないと主張します)も含めてです。問いは、排他的主張が存在するかどうかではなく、どの排他的主張が証拠に最もよく合うかです。「この薬はあなたを治すが、あの薬は治さない」と言う医師は傲慢なのではなく、証拠に従っているのです。キリスト教は、人々に証拠を検討し、自分で決めるよう求めています。

❓ 反論

「イエスのことを一度も聞いたことのない人はどうなるのか?善なる神が、そういう人を地獄に送るのか?」

✓ 応答

これは真剣で重要な問いであり、クリスチャンは何世紀にもわたって正直に取り組んできました。聖書は、神は人を公正に裁き、神は正しい方だと述べています(創世記 18:25)。多くの神学者は、神は良心や自然、そして私たちが十分に理解していないほかの手段を通しても人に届くことができると考えています。このレッスンにとって肝心な点はこれです。もしあなたが証拠をすでに聞いたのなら、問いはほかの人にとって公平かどうかではなく、あなたが見たものをどうするか、なのです。

❓ 反論

「イエスは実際には神だと主張しなかったのかもしれない。弟子たちが話を誇張したのかもしれない。」

✓ 応答

これは「伝説」説による反論で、真剣に受け止める価値があります。しかし考えてみてください。イエスの最初期の弟子たちは一神教のユダヤ人でした。神以外のだれかを礼拝することを最悪の罪と信じていた人々です。よほど異常なことがあって確信させられたのでない限り、この人々が自分たちのラビは神だなどという話をでっち上げるはずがありません。また、パウロの最初期の手紙(イエスから 20-25 年以内)は、すでにイエスを神として扱っています。伝説が発達するにはあまりに早すぎます。これについては、写本の証拠と考古学の証拠を扱った第 6 課と第 7 課で学びました。

❓ 反論

「ムスリムもイエスを信じている。見方がちがうだけだ。どちらが正しいのか?」

✓ 応答

イスラム教は、イエスは偉大な預言者だったが神ではなく、十字架にもかけられなかったと教えます。キリスト教は、イエスは神であり、その十字架刑と復活が信仰の中心だと教えます。これらの主張は真っ向から矛盾しており、両方が真であることはありえません。問いは、どちらの主張により良い歴史的証拠があるかです。十字架刑は、ローマの歴史家(タキトゥス)、ユダヤの歴史家(ヨセフス)、そして複数の独立した初期キリスト教の史料によって確認されています。イエスは十字架にかけられなかったという主張は、600 年以上後に書かれたクルアーンに由来します。歴史家は圧倒的に、より早い時期の、複数の史料に裏づけられたものを重視します。

🤔 考えてみよう - 話し合いのための問い
  • だれかが「宗教はどれも同じことを教えている」と言ったら、それが事実ではないことを、どうすれば敬意をもって示せますか?
  • キリスト教の中心的な主張(復活)が私的な体験ではなく公の歴史的出来事であることは、なぜ重要なのでしょうか?
  • C・S・ルイスは、イエスを「ただの偉大な教師」とは呼べないと言いました。「うそつきか、狂人か、それとも主か」の論証に説得力を感じますか?それはなぜですか?
  • 「神は信じるけれど、特定の宗教は信じない」と言う友だちに、どう答えますか?
📝 確認クイズ - 問 1

ほかの主要な宗教と比べて、キリスト教の中心的な主張を唯一無二にしているものは何ですか?

📝 確認クイズ - 問 2

C・S・ルイスのトリレンマによれば、なぜイエスを「ただの偉大な道徳の教師」と呼ぶことはできないのですか?

🎯 このレッスンで学んだこと

世界の主要な宗教は、同じ山に登るちがう道ではありません。神、イエス、救い、そして死後について、真っ向から矛盾する主張をしています。キリスト教が際立っているのは、その中心的な主張であるイエスの復活が、調査できる公の歴史的出来事だからです。そしてイエス自身が、「ただのよい教師」と呼ぶという選択肢を私たちに残しませんでした。イエスの主張は決断を迫ります。うそつきか、狂人か、それとも主か。

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