道徳的論証:客観的価値から神へ
もし客観的な道徳的真理が存在するなら、つまり、意見にかかわらず本当に正しいことや間違っていることがあるのなら、その真理には基盤が必要です。道徳的論証は、客観的な道徳的価値と義務が存在することの最良の説明は神である、と主張します。
論証の形式
- P1もし神が存在しないなら、客観的な道徳的価値と義務は存在しない。
- P2客観的な道徳的価値と義務は存在する。
- ∴したがって、神は存在する。
これは論理的に妥当な後件否定(モードゥス・トレンス)の論証です。結論を否定するなら、前提のどちらかを否定しなければなりません。ほとんどの人は前提 2 を退けるのが難しいと感じます。つまり、この論証の重みは前提 1 にかかっているのです。
Reasonable Faithによるこの 5 分間のアニメーションは、このコースのカラーム論証と微調整の動画と同じシリーズで、上に示した二前提の論証をそのまま提示しています。道徳的価値(何が善で何が悪か)と道徳的義務(何をするのが正しく、何をするのが間違いか)という決定的な区別を明確にし、「客観的」とは誰かがそれを信じているかどうかにかかわらず妥当であることを意味すると示したうえで、リチャード・ドーキンス自身の言葉による無神論的な現実像をもって前提 1 に迫ります。
「私たちが観測する宇宙は、その根底にデザインも目的も悪も善もなく、盲目で無慈悲な無関心のほかに何もないとすれば、まさに予想されるとおりの性質を持っている。」(リチャード・ドーキンス、『River Out of Eden』)
もしこの像が正確なら、と動画は問いかけます。客観的な価値と義務は、いったいどこから来ることができるのでしょうか。以下の各セクションは、この同じ問いを詳しく取り上げます。
The Moral Argument · Reasonable Faith (drcraigvideos) · YouTube で視聴する · reasonablefaith.org/moral · この動画は英語です。YouTube の字幕ボタンから日本語字幕を表示できます。
前提 1:なぜ自然主義は道徳を根拠づけられないのか
自然主義的な世界観、すなわち物理的な物質とエネルギーと自然法則だけが存在するという世界観のもとでは、道徳的事実には明らかな居場所がありません。代案を検討してみましょう。
進化?
もし私たちの道徳的本能が、純粋に自然主義的な見方が主張するように、単に進化と自然選択の産物にすぎないのなら、それは生存を促すために形づくられたのであって、何が本当に正しいかを見いだすためではありません。自然選択が有利にするのは生存を促す行動であって、道徳的に正しい行動ではありません。その見方に立つなら、私たちの道徳感覚が本物の道徳的事実を明らかにしていると考える理由はありません。哲学者マイケル・ルースは率直にこう認めています。純粋に進化論的な説明のもとでは、道徳とは「遺伝子が私たちに押しつけた幻想」なのだと。
社会契約?
社会契約説は、道徳を理性的な行為者たちの間の合意に根拠づけます。しかし合意は偶然的なものです。違っていた可能性があります。大量虐殺を許すことに合意した社会があったとしても、それで大量虐殺が正しくなるわけではありません。社会契約は、人々が実際に何に合意するかを記述するのであって、何に合意すべきかを記述するのではありません。
道徳的プラトン主義?
一部の哲学者は、道徳的真理は数学的真理のように、精神から独立した抽象的な事実として存在すると論じます。これは哲学的に一貫していますが、深い問題を引き起こします。なぜ抽象的な道徳的事実が、具体的な存在者に対して権威を持つのでしょうか。そして純粋に物理的な生き物が、どうやって非物理的な道徳的真理へと認識の上で到達できるのでしょうか。抽象と具体をつなぐ橋がなければ、道徳的プラトン主義は不完全なままです。
『カラマーゾフの兄弟』の中で、ドストエフスキーは「神がいなければ、すべてが許される」という考えを探究しています。これは心理についての主張ではなく(無神論者も善く振る舞うことができます)、存在論についての主張です。超越的な道徳的立法者がいなければ、いかなる行為をも本当に正しい、あるいは本当に間違っていると呼べるような客観的基準は存在しないのです。
前提 2:道徳的実在論
客観的な道徳的事実は存在するでしょうか。試金石となる事例を考えてみましょう。
- •ホロコーストは客観的に悪であった。単に不人気だったのではない。
- •罪のない子どもを殺すことは、いかなる文化的規範にかかわらず間違っている。
- •人間には、政府によって与えられるのではない固有の尊厳と権利がある。
このうちどれか一つでも肯定するなら、あなたは道徳的実在論者です。そして道徳的実在論、すなわち客観的な道徳的事実が存在するという立場は、職業哲学者の間で多数派の立場です。2020 年の PhilPapers の調査では、哲学者の約 62% が道徳的実在論を受け入れるか、それに傾いていることがわかりました。
しかし、この調査が何を示し、何を示していないかに注意してください。ほとんどの哲学者は、客観的な道徳的事実が存在することに同意しています。しかし、客観的な道徳的価値は宙に浮いたまま存在することはできず、人間の意見を超えた何かに根拠づけられていなければなりません。客観的な道徳を信じながら神を否定する哲学者は、土台なしに価値だけを主張しているのであり、まさにそこを前提 1 が突くのです。
では、前提 2 そのものを否定する人はどうでしょうか。その立場は道徳相対主義と呼ばれ、善悪とは個人や文化が決めたものにすぎないと考えます。しかし、相対主義は自らを論駁してしまいます。「客観的な道徳的真理は存在しない」という主張は、それ自体が道徳についての客観的な真理として提示されています。相対主義者は、自らの立場を掘り崩すことなしには、その立場を述べることができないのです。
しかも相対主義者は、たいていそこで止まりません。私たちは他の文化を裁くべきではないとか、自分の価値観を他人に押しつけるのは間違っているとか、さらに言い添えるのが普通です。これらは道徳的な主張であり、しかもすべての人を拘束するかのように語られています。相対主義者は結局、自らが否定しているまさにその種類の客観的な道徳的真理に頼ることになるのです。
エウテュプロンのジレンマ
有神論的な倫理に対する最も古く、最もよくある反論は、(プラトンに由来する)エウテュプロンのジレンマです。「あるものが善いのは神がそれを命じるからなのか、それとも神がそれを命じるのはそれが善いからなのか?」
前者なら、道徳は恣意的なものに見えます。後者なら、道徳は神から独立しており、神は倫理にとって無関係になってしまいます。
有神論の標準的な応答は、どちらの角も取りません。道徳は神の恣意的な意志ではなく、神の本性に根拠づけられています。神は本質的に善です。善とは神が決めるものではなく、神がそれであるものなのです。神の命令は、その不変の品性から必然的に流れ出ます。これはロバート・アダムズとウィリアム・レーン・クレイグが擁護する修正神命説として知られています。
よくある反論
「無神論者も道徳的でありうる。善い人であるために神は必要ない。」
無神論者も、まっとうで立派な生き方をすることは確かにできます。そしてこの論証はそれを否定していません。聖書自体が、律法を持たない人々も「自然のままで、律法の命じる事を行う」ことがあり、それは「律法の要求がその心にしるされている」からだと言っています(ローマ人への手紙 2:14-15)。その道徳感覚は、信じる人にも信じない人にも、すべての人に与えられた神の贈り物です。しかし、完全な意味で善い者であることは別の問題です。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙 3:10)。イエスも「神ひとりのほかによい者はいない」と言われました(マルコによる福音書 10:18)。だからこそ、善い人であることによって救われる人はだれもいないのです。そして、道徳的論証は道徳的行動(認識論)についてではなく、道徳的存在論についてのものです。つまり、道徳的事実の存在を根拠づけるのは何か、という問いです。数学を信じない人でも正しく足し算ができるのと同じように、無神論者も道徳的真理を知り、それに従うことができます。問題は、その真理を真にしているのは何かであって、誰がそれに到達できるかではありません。
「道徳的な意見の不一致があることは、道徳が主観的であることを示している。」
意見の不一致は主観性を含意しません。人々は歴史や物理学や数学について意見を異にしますが、それらの分野が主観的だとは結論しません。道徳的な意見の不一致は、道徳的真理の存在を掘り崩すことなく、無知や偏見や文化的条件づけを反映しているだけかもしれません。実のところ、道徳について意見を戦わせるという行為そのものが、探し求められている正しい答えがあることを前提としているのです。
- 進化が私たちの道徳的直観を説明するとしたら、それは直観の信頼性を掘り崩すでしょうか。同じ論理を私たちの認知能力に当てはめてみてください。進化は理性そのものの信頼性を掘り崩すでしょうか。
- 修正神命説はどのようにしてエウテュプロンのジレンマを逃れるのでしょうか。
- 道徳的プラトン主義は、有神論的な道徳的実在論に代わる実行可能な選択肢でしょうか。その弱点は何でしょうか。
エウテュプロンのジレンマに対する有神論の標準的な応答は次のうちどれですか。
道徳的論証は、客観的な道徳的価値と義務、すなわちほとんどの人が認め、ほとんどの哲学者が肯定するものには、超越的な根拠が必要であることを示します。自然主義も、進化も、社会契約も、この根拠を提供することはできません。神の本質的に善なる本性こそが、私たち全員が認める道徳的事実にとって最も一貫した基盤を与えてくれるのです。