イースターに何が起きたの?
キリスト教でいちばん大切な主張は、イエスが死んで、三日後に生き返ったということです。これは信じられないほどすごい主張です。だからまず、クリスチャンではない歴史家でさえ「実際に起きた」と認めていることを見てみましょう。そのあとで問いかけます。いちばんよい説明は何でしょう?
ほとんどの人が認めている三つの事実
これはクリスチャンが信じていることというだけではありません。ほとんどすべての歴史家が、クリスチャンではない歴史家もふくめて、受け入れている事実です。
- 1イエスは本当に死にました。ローマの兵士は処刑の専門家でした。人が確実に死んだかどうかをたしかめました。ローマ、ユダヤ、キリスト教の、いくつもの古代の資料が、イエスが十字架につけられて死んだことを確認しています。
- 2墓は空っぽでした。イエスに死んでほしかった人たちでさえ、墓に遺体があるとは言いませんでした。そのかわりに、弟子たちが遺体をぬすんだという話を作りました。でも考えてみてください。もし遺体をみんなに見せることができたなら、キリスト教はその場で終わっていたはずです。それができなかったのです。墓は空っぽだったからです。
- 3イエスに従っていた人たちは、すっかり変わりました。イースターの前、弟子たちはおびえていました。かくれていました。イエスのいちばん親しい友だちだったペテロは、イエスを知っていることさえ否定しました。それから、何かが起きました。とつぜん、あのこわがっていた同じ人たちが、イエスは生きていると、だれにでも大胆に語りはじめたのです。それがつかまること、なぐられること、殺されることを意味していても。彼らを変えてしまう、劇的な何かが起きたのです。
人は、本当だと信じているもののために死ぬことがあります。たとえそれがまちがっていても。でも、うそだと知っているもののために死ぬ人はいません。弟子たちは、イエスが生きているのを本当に見たかどうかを、知ることのできる立場にいました。もし作り話なら、うそだと自分たちで知っていたはずです。それなのに、ひとり残らず、そのうそのために苦しみ、死ぬことを受け入れました。だれひとり「わかった、作り話だった」と言うことなく。うそつきには、そんなことは起きません。
イエスは、なぜ死ななければならなかったのでしょう?
だれでも、悪いことをしたことがあります。うそをついたり、いじわるをしたり、言うことを聞かなかったりしたことが、私たちみんなにあります。聖書はこれを「罪」とよび、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」いると言っています(ローマ人への手紙 3:23)。罪は、私たちを神さまから引きはなします。そして私たちはだれも、それを自分の力でなおすことはできません。
だから、イエスが来てくださったのです。イエスは十字架の上で死んだとき、私たちの罪の罰を代わりに受けてくださいました。私たちが受けなくてすむようにです。聖書はこう言っています。「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」(コリント人への第一の手紙 15:3-4)。そしてイエスが生き返ったので、死が勝ったのではないことがわかります。
ゆるしは、神さまからの無料のプレゼントです。じゅうぶんよい子になって手に入れるものではありません。イエス・キリストを信頼することで受け取るのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書 3:16)。
弟子たちが自分の見たもののために死ぬことをいとわなかったのは、どうして大切なの?
- もし弟子たちが復活の話を作ったのなら、どうしてそのために死んでもいいと思えたのだろう?
- もし墓が空っぽではなかったのなら、どうしてイエスの敵たちは遺体をみんなに見せられなかったのだろう?
- 弟子たちをこわがりから歴史上いちばん勇かんな人たちに変えたのは、何だったと思う?
- イエスは、どうして私たちのために死ななければならなかったのだろう?